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ヒルデガルト研究会

12世紀ドイツの女性神秘家ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの神学・医学・薬草学・音楽についての研究

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第3回ヒルデガルト連続セミナー

第3回ヒルデガルト連続セミナー (2013・5・18)

Ⅰ 中世の身体―カタリ派を焦点として
Ⅱ 霊・魂・身体


Ⅰ 中世の身体

A) 中世におけるキリスト教的身体観
①本来、神への不服従を意味した原罪は、情欲の罪に一面化され、死を超えて命を継続する方法としての生殖が穢れとなる以上、肉をもった今生の生全体は穢れたものとなる。「魂にとって体は忌まわしい衣である。」(6~7世紀 大グレゴリウス)
アウグスティヌス以来、中世キリスト教世界を覆った身体論はこのことばに集約される。
だが肉体は魂の乗り物に過ぎないとするギリシャ思想には、肉を穢れとする観念論が根本にあり、「キリスト教はなにも抑圧しなかった。それはすでになされていたのである」(ポール・ヴェーヌ)といわれるように、それは西洋の長い歴史的な精神でもある。2~3世紀にはオリゲネスのように肉体を軽蔑し、自ら去勢するキリスト教禁欲者たちもいた。こうした歴史の上に12世紀ルネサンスは花を開こうとし、そしてそこにヒルデガルトがいた。
②鞭打、断食、不眠、沈黙等の苦行を「肉体の呪縛と専制から精神の自由を回復し、神への回帰を果たすための手段」とみなしたベネディクト修道会にあって、ユッタの死を身近に経験したヒルデガルトは、女性幻視者シェーナウのエリザベトに対し度を越した苦行を戒め、「際限のない禁欲が実を結ぶことはなく、むしろ悪魔のささやきであって中庸を尊ぶべきである」と述べている。
③「(上記のような支配的な考え方を引き継いではいたにせよ)アッシジのフランチェスコにとって身体はそれでも「兄弟」であり、病気は「姉妹」であった。」(ル・ゴフ『中世の身体』166P)

B) 恢復する肉体の兆し―涙と微笑み
1. 涙の肯定と意味の変化
①涙を流すイエス
②「涙の中に中世の謎のすべてがある。」(『中世の身体』104P)
③ 禁欲の一方法としての涙という伝統
「摂取する水分を減らせば罪の誘惑も減少するが、涙は体内の液体を排出し、体が罪深い性的使用に充てることを防ぐ。」(『中世の身体』99P)
④「毎日、祈るとき、涙と嘆息をもって神に過去の過ちを告白すること」(6世紀『聖ベネディクトの戒律』4-57)
⑤ 「魂は悲しみを通して自分は本来天に属するものであるのにこの世をさまよっているのだということを悟った時、目に穏やかな涙を送るようになる。」(⇒「甘い涙と改悛」)
●ヒルデガルトにとって涙はかなしみの表れというより、魂の所属の記憶であり、救済の印である。
2. 笑いの復権
①「ほほ笑みは中世の発明である。」(『中世の身体』112P)  
②笑わなかったイエス
③「笑いは肉体的な快楽と関係がある。アダムが罪を犯したとき、子を産むという穢れなき本性が性愛へと変化したように、アダムのもっていた天上的な喜びに満ちた声は、笑い声と馬鹿笑いへと変質した。」(199 笑い過ぎ)
⇒「笑いを誘うことばを口にしないこと。大声で笑いに興じないこと。」(『戒律』4-53・54)
●ヒルデガルトにあって涙は救済の印であり、笑いは一種の性愛であった。
12世紀的な霊肉の狭間にあって、ヒルデガルトの身体は開明と保守との矛盾を、伝統的な修道女として合わせ持っている。

C) 異端カタリ派
●ヒルデガルトの身体論にはカタリ派身体論との緊張がある。それはカトリックが長年教化してきた身体論の純化した姿でもあった。
① カタリ派:「清浄なるもの」
1) 1017年オルレアンで最初のカタリ派発覚
2) カタリ派の拠点ツールーズはヴェネチア、ローマに次ぐヨーロッパ第3の都市であり、古代文明直系たる南フランス諸都市は、独立の感覚と自由を愛する心を古代から受け継いでいた。
(⇒吟遊詩人トゥルバドゥールの自由精神:ラングドック・プロバンスなどカタリ派の地方と重なる)*織職人が多い。
3)アルビジョア十字軍は南仏を併合し、統一国家への過程での戦争でもある。(聖王ルイ)
4)1209年ベジェの大虐殺(3万―自称10万 カトリック教徒を含めた住民全員の虐殺)
5)1244年モンセギュールの陥落(アルビジョア十字軍:65年間・15県・100万の犠牲)
②教義―地上世界は悪と考える霊肉二元論 ●キリスト教的二元論グノーシスの流れ
1) 「初めにふたつの原理があった。善の原理と悪の原理である。永劫のうちにあって、前者には光明が、後者には暗黒が存した。光明にして霊的なるものすべては善の原理に由来し、物質的かつ暗黒なる一切は悪の原理に由来する」(カタリ派信仰告白冒頭部分)
2) 肉体は牢獄、この世は霊魂が贖罪を果たすための試練の場、肉体を脱ぎ去った天界こそが、霊魂本来の棲家であるとして、牢獄である肉体を蔑み、物質である現世を厭い、ひたすら堕落以前の霊魂に戻り天界に回帰することを願い、輪廻転生を信じ、一切の殺傷を禁じた。
3) イエスは神の被造物であり、その降誕化肉は仮現にすぎない。パンも葡萄酒も物質であり、物質である限り悪である以上、聖餐式を認めず、十字架・聖堂、一切の秘跡を否定した。また公開告白を行った。⇔カトリックにおける告解の義務化
4) 完徳者は無所有・結婚・性交・肉食・飲酒の忌避・[耐忍(エンドゥラ):死に至る絶食:13世紀以降]
5) 帰依者の誓い(リヨン典礼書)
1. 神と福音へ身を捧げる  
2. 油で調理された野菜・魚以外の肉や卵やチーズを食べないこと(生殖の結果である動物由来食の禁忌)
 3. 嘘言を吐かない
4. 誓約の拒否(都市誓約市民であることの拒否を意味する)
 5. 肉体の交渉に身をゆだねない
 6. いかなる形の死の脅しに対しても教団を棄てない
●「清貧と窮乏と断食の生活をするドミニコ会の成立⇒ドミニコ会・フランチェスコ会はカタリ派との緊張で創られた。⇒ヒルデガルトもカタリ派に対する防波堤の役割を担う(←クレルボーのベルナール)

Ⅱ 霊・魂・身体
●問題意識の所在
① 心と魂は同じだろうか。 ●心・魂・命の在り処
② 霊・魂・体はどのような関係にあるのか。
 ③ スピリチュアル・ケアとはなにか。

A) 心と魂
① アリストテレス『霊魂論』を巡って
1) Peri Psyches: De anima:「霊魂論」/「心理学」/「心とはなにか」(桑子敏雄)
●「プシュケー(ラテン語でアニマ)は、一般に近世ヨーロッパでは心、ないし魂と理解されてきた。ギリシャ語におけるプシュケーとはもともと、人が死ぬ際にその口から最後の息とともに飛び去る人の形をした透明な霊魂であり、ハデスに去ってそこに彷徨う実体であった。しかしその後、このプシュケーについての思想が深まるにつれて、それは気息よりも命であると解されてきた。しかしプシュケーが生命であるとすれば、それはまた人間の最も人間らしい生命としての精神的生の主体たる「霊魂」ということになり、そして他の生物の場合のプシュケーとはただの生命である、ということになるであろう。したがってギリシャ語でempsychon(魂を中に持つ)ということばは「生物」という意味である。このように、プシュケーは本来、「生命」または生命を司る主体「生魂」と訳されるべきである。それゆえアリストテレスの「Peri Psyches」は、正しく古典ギリシャ語的に読むならば『霊魂について』よりも『生魂について』、もしくは『生命について』といわねばるまい。」●今道友信『アリストテレス』265P
:人間と他の動物を区別するためのホイベルスの助言
② 旧約聖書
「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6-5)
・You shall love the LORD your God with all your heart, and with all your soul, and with all your might.
・Diliges Dominum Deum tuum ex toto corde tuo et ex tota anima tua et ex tota fortitudine tua.
③ 新約聖書(以下はヨハネ福音書のみ記述)
(1) エルサレム入城後、自らの処刑を予言される場面
「今、わたしは心騒ぐ。」(何と言おうか。「父よ、わたしをこの時から救ってください」と言おうか。しかしわたしはまさにこの時のためにきたのだ。)(ヨハネの福音書12-27)
・Now my soul is troubled.
・Nunc anima mea turbata est.
(2) ユダの裏切りを予言する場面
「(イエスは話し終えると)、心を騒がせ、断言された。」(ヨハネ13-21)
・After saying this Jesus was troubled in spirit.
・Cum haec dixisset Jesus, turbatus est spiritu.
(3) ペテロの離反を予告した後の場面
「心を騒がせるな。」(神を信じなさい。そしてわたしを信じなさい。)(ヨハネ14-1)
・Do not let your hearts be troubled.
・Non turbetur cor vestrum.
(4) イエスの死の場面
頭を垂れて息を引き取られた。[霊を引き渡す](ヨハネ 19-30)
・he bowed his head and gave up his spirit.
・Et inclinato capite, tradidit spiritum.

■参考:霊と魂の一般的な区別
  ギリシャ語    ラテン語
霊 Pneuma spiritus   
  霊・風  風・匂い・息・霊
魂   Psyche   *animus (m)          **anima (f)
 生命・魂・精神 生命・魂・精神・意識 微風(風)・呼吸・魂・生命・精神
                 *人間的霊魂(理性的霊魂)  **動物的霊魂(動物的生魂)

B) 病因と治療における霊
①「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして光があった。」(『創世記』1-1)
②「創造の初め、神のみことばが響き渡った時、創造された世界はまだ冷たく、火というものはなかった。そして主の霊――それは火と命である――が水の表を覆っていた。この霊がそれぞれの被造物に対し、その本性に応じて命の息を吹き込まれた。この息吹により、霊は被造物の中に火を灯したのである。」(22 物質と被造物の生命力)
●霊は風に同じ。「混沌」:「整わず形を持たず」(⇒第2回 Ⅳ「天地の創造」参照)

C) 霊と魂の関係-命の成り立ち
●発生過程における霊と魂
① 受精と凝固
・ヒルデガルトは女性の種が存在するかどうかについては明確な態度をとらない。
「精液がしかるべきところに落ちると、母親の血は精液と結合し、やがて肉のように凝固して固まる。」
 conjungo:合一する⇒conjunx(妻・愛人・配偶):発生段階での男女両性の合意の主張
② 受精後1ヶ月まで
1)「この凝固したものはやがて人間の形象(form)へと形造られ、その中には糸のように髄と血管が張り巡らされる。この髄と血管は体中に分岐してやがて結節のようなものになる。卵の皮膜のようなものが髄を取り巻き、それはのちに骨の中に入ってゆく。まだ手足のない皮膜の中に裂け目が出来、そこが将来手足となる。これが1ヶ月、すなわち月が満ち欠けする間に起こる業である。」(61 魂の注入) 
    第4週の胚          
受精後4週

    第5週の胎児
受精後5週

③ 受精後5週間―魂の注入
1) 神のお望みになり、準備された通り、母親が知らないうちに生命の息がやってきて、力強く温かい風のようにその形象に触れる。その息は四肢のすべての関節に入り込み、息が突き当ると四肢の分岐した部分は、太陽の光を受けて花が枝葉をつけてゆくように互いに独立してゆく。しかしこの形象はまだ動くことが出来ず、横たわったままで眠っているように、かすかに呼吸しているに過ぎない。」(⇒グノーシスのアダム創造:立てないアダム)
2)「霊は形象全体を経巡り、髄と血管を再び満たして強める。形象は以前よりずっと生長し、骨は髄を覆って広がり、血管は強められて血を保つ。そして胎児は一瞬にして揺り動かされるようにして動くようになるが、母親もその動きを感じる。それは全能の神の意志を通して、生ける風――すなわち魂が形姿(figura)に入り、形象を強めたからである。魂はこの形姿を命あるものとし[活気付け]、形姿の至るところを駆け抜ける。この形姿の中で魂は自分がどこで分岐しどこで曲がるべきかを知っている。」(⇒下図参照)
3) 「次に魂はその息で形姿全体を覆い、活ける空気のようにして血がすべての場所を流れるようにし、肉を引き締める。魂は肉の中に骨を造り、骨を固定する。魂は自分が働きかけるべきすべての場所を丹念に調べ上げる。」(同上)
)子どもの胎動と魂の苦悩(部分


④霊と魂
●魂とは神の霊が人間の中に入って命を形作って以降の霊的作用全体を指す。
⑤霊が5週目に吹き込まれ、命が命となるのはなぜか(⇒前回三木茂夫の項想起)
1) 胎児は4週から5週目に鰓呼吸から肺呼吸に劇的に変化する時期であり、流産のもっとも多い時期であることは第一回目に述べたが、ヒルデガルトは、この時期に霊が吹き込まれ、命の成立と一つのものとして魂が注入されるとしていることは、現在の発生学と不思議な一致をみせる。(⇒第1回「三木成夫」の項参照)
2) だがこの問題の背景には、神が魂を吹き込んだのはアダムにおいてのみ一回きりで、その後、魂は生殖によって伝承するのか、あるいは一人ひとりに魂は吹き込まれるのかという、アウグスティヌス以来、天地創造以降の被造物の自立運動に関わる長い論争がある。ヒルデガルトは一人ひとりの運命に神が関与する以上、魂もその都度、神が吹き込まれる―すなわち一々の命の成り立ちはすべて神の直接的な業であると見ている。
3) では4週までの胚は命ではないのか。このことには創世記の第一日目の「混沌」の風景が、ヒルデガルト受胎論のベースにあるように思われる。
「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」
●ヒルデガルトにあって天地の創造とマリアの受胎、人間の受胎は一つのものである。(上右図参照)
4) そして「不正な」男女の関係の中には悪魔の息吹が混在することを示唆する。
●口絵:スキヴィアスⅠ-4のヴィジョン:「子供の胎動と魂の苦難」⇔プラトンの星と魂

D)『病因と治療』における「魂と身体」
①「火が水の本性であるように、魂は人間の中の特別な力なのである。人は魂なしに生きることはできない。」(130 魂の火)
①「人間の魂は天から、神から人間の中に下り、命を与え、理性を育む。」(21 魂の力)
②魂は火と風と湿の性質を持つ。それは人間の心臓全体を支配している。(43 人間の内部)
③魂は体に送り込まれるがゆえに、魂は息として存在する。(45 魂の注入)
④「体が魂と分離している場所は一つもない。魂はその熱をもって体全体を覆っている。人は四つの元素によって成り立っているのだが、そのうち火と空気は霊的であり、水と土とは肉体的である。これら四つの元素は人の中で結合し、人を温め、こうして肉や血、身体諸器官が形造くられる。」
●身体の各細部を構成する魂の働き―細胞の一片にも魂は宿る。
⑤「体が要求するどんな仕事も、魂は体の中で実行する。体が欲し、魂が働く。魂が体の欲求を実行するので、魂の方が体よりも力に満ちているといえる。もし人間が肉体をもっていなければ、魂はその力の源泉をもたないことになる。・・・この人間という作品は、魂ぬきにはありえないが、魂がなければ、体はその肉と血をもって動くこともないであろう。
●魂は体の各器官・組織の働きに作用している。
⑥「神は人間が全世界を見ることで知り、聞くことで理解し、嗅ぐことで区別し、(対象物の内的な力を口に入れて)味わうことで消費し、触れることで支配する(両手の業によって成就する)ように、人間に創造の武具を着せたのである。」(前回:『神の御業の書』)
●ヒルデガルトにとって「知る」とは全感覚を動員する魂の働きであり、現実的で対象的な被造物との交わりを通して対象物を自己の内に血肉化することである。「孕む」⇒第2回「贖われるアダム」の図想起 
⑧「魂は善に向かう息である。肉は罪に向かう傾向をもっているので、時には魂が肉を抑えることができず、罪を犯すことがある。」(84 魂と肉体の対比)
●魂が「善に向かう息である」とは、ヒルデガルトの信仰であると同時に経験であろう。

E) 脳・心臓・魂―通常、心と考えるもの
①「脳は本来湿っていて脂肪質であり、人の分別や知恵、理解力を司る質料といえる。」(91 脳)
②「魂は心臓に留まり、窓を通り抜けるようにして思考し、燃える火が煙突を通り抜けるようにして思考力を脳に送り出す」(95 「魂の居場所」)
③「脳は心臓で識別した思考を体に広げる。」(95 「魂の居場所」)
■参考:ギリシャにおける臓器と魂(⇒詳細次回)
1. 肝臓:栄養を司るプシュケー:植物的生魂(植物的生命)
2. 心臓:運動を司るプシュケー:動物的生魂(動物的生命)
3. 脳:理性的思考を司るプシュケー:理性的生魂(人間的生命)

F) 無意識と魂
「睡眠中は無感覚であって無意識に近く、体は脱力している。この時、その人には知性も思考力も感覚もない。目覚めている時も眠っている時も魂は留まっていて、その人を一つに統合しており(contineo:hold together⇒「(ある状態に)保つ」「あるものの本質を形づくる」「あるものの内容をなす」)、寝ている間も目覚めている時と同様に、魂は生ける息を吸ったり吐いたりしている。」(81 睡眠)
●魂は無意識下である睡眠中の呼吸や生命活動を統御し、寝返りなど無意識な体の動きや夢、ビジョンあるいはあくび、体の伸び、ため息などは魂の働き、あるいはその作用である。

G) 魂と復活
①「魂は肉体なしに生きることはできるが、肉体は魂なしに生きることはできない。最後の審判の日ののち、魂はおのれの衣を求め、魂の望みに応じてその衣を定める。このようにして、人間は、魂と肉体という二つの本性において存在している。・・・魂は肉体なしで生きていて、最後の審判の日の後、神に身にまとう衣を求め、その衣を自分に引き寄せる。」(以上「61 魂の注入」)
②「人間たちは魂も身体もその無傷な肢体において、すなわち身体と性の完全な状態において、ただ一瞬のうちに復活するであろう。」(『スキヴィアス』Ⅱ12)
●魂と体の関係は、神の意志と宇宙―物質の顕現と同じである。
③「普段は愚かで無知であった人が、病気に罹ると知性的になった場合、その人の魂は、別の命のために知力と道筋を準備をしているということになる。」(223 再び死の兆候について)⇒「転生」を指すか?
*以上がヒルデガルトによる魂の注入から離脱・復活までの魂をめぐる全景である。

H) 付言―動物の霊
①魚類
「神はある特定の魚に、その本性に応じて知恵を与えた。そのためこれらの魚は他に餌がないときでも食することのできる植物や根を水中に識別できる。いったんこれらの力や性質を理解するか経験すると、魚は4か月から半年は餌を必要としない。(『自然学』212P)
「鯨は高度の精神を持ち、さまざまな方法で体を動かす。」(213P)
②鳥類
「鳥は羽を使って空中のいたるところにとどまることができるように、鳥の魂は知るべきことを感知し、理解する力を持っている」。」(234P)
「ハゲワシは鳥だけでなく獣独特の能力をもっており、鳥の中の予言者である。」(239P)
「ペリカンは人の悲しみや幸せを感知し、その意味を理解している。人が幸せな時には歌い、悲しい時には悲しみを表す。人の死を予見すると小さく鳴いてそれを知らせる」(254P)
③動物
「動物は神の思いの地上における現れである。・・・森の中の他の動物は、有益であれ無益であれ、神の御業の完遂させる秘められた可能性を表す。人間の理性は動物との対比で人を見るが、それは動物が人間に類似した性質をその内に持っているからである。」(270P)●人間=宇宙図の風を表す四方の動物を想起せよ。
「ライオンには人間と同じ側面がある。凶暴になると人を傷つけるが、その後悲嘆にくれる。」(272P)
「犬は生来、人間の仲間である。感覚によって人間を識別し、人間を深く理解して愛し、喜んでともに住み、人間に忠実である。この忠誠さゆえに悪魔は犬を忌み嫌う。犬は人が憎悪や憤怒、不誠実な心を抱いているとそれを察知し、吠える。たとえ飼い主が犬を愛していようとも、裏切りを企むとそれを見破り歯をむく。犬は人の企みを察知し、その意味を理解する。また犬には未来を予知する能力がある。喜ぶべき未来の時にはうれしげに尻尾を振り、悲しむべきことであれば悲しげな声で吠える。(288P)
④補足:植物
「植物はいずれ温か冷の性質をもつが、温の植物の熱は魂を、冷の植物の冷は肉体を表す。」
「人間は土から造られたが、土は人間各人にその性質や置かれている環境に見合う形で、その生命力を人間に与えた。人間にとって有用な薬草を通して、人間の精神のさまざまな力の領域を示し、その力を明らかにする。また毒草を通して邪悪で害のある振る舞いを明示する」18P) ●訳の問題
●ヒルデガルトが「人間は全被造物の要約体である」という時、これら全被造物のもつ魂の性質とその働きは人間の内に集約され蓄積されているということを意味する。内に孕みが故に外を孕む。(concipio)

■参考:イグナチオ・ロヨラ 『霊操』における「魂」
1)魂の中に起こる動きを霊動という。
2)魂の動きが神からのものか、「暗闇の力」(悪魔)からのものか、魂の目を光らせながら識別する⇒霊動としての荒びと疑悩
3)魂の三能力:記憶力・理性・意思⇒脳の活動としての魂の理解
 ●大勇猛心(grande animo):意志力
●ヒルデガルトは深い病の底で脳の活動に限られた三能力が無力だということを知ったのではないか。
4)「神がどのように被造物のうちに住んでおられるかを注意深く見る。存在を与えながら無生物のうちに住まい、生長作用を与えながら植物の中に住まい、感覚作用を与えながら動物のうちに住まい、思惟作用を与えながら人間のうちに住んでおられる。」(『霊操』209P)⇔人間としての記憶の奥にある生命史的記憶としての異言(第1回異言の項参照)
―異言は解き放たれた記憶である。

■まとめ
①日本人は「心」と呼ぶことを好むが、心と魂は同じではない。
②魂とは神の霊が人間の中に入って命を形作って以降の霊的作用全体を指す。
③体が魂と分離している場所は一つもない。魂の働きで命は形作られ、身体的諸器官は形成され、肉体的・精神的諸力能は発揮される。●生命のプログラムとしての魂の働き
④私とは私の魂のこと、すなわち肉体と精神、その肉体と精神に刻印された諸生命の階梯の記憶、そして生と死を貫き通す「個性」のことである。夢も預言も異言も無意識も、すべて私の魂の働きである私である。病むこと自身も私となる。
⑤告解が自我の表出であれば、魂はこの自我の奥にある真我を表出する。
この真我は記憶・理性・意思という大脳の奥底にある意識のみを遡ることではない。私とは「刻々を孕むもの」であり、意識と身体のすべてを統合するものが魂である。
⑥原罪とはこの統合からの逸脱を意味する。「アダムの贖い」の図は、知識を嗅ぐに止め、孕むことから逸れたという原罪の意味を示す。
ヒルデガルト原罪論―五感が十全に働くとは、魂が十全に働くという意味である。涙が天上の記憶であるように、魂は善に向かう本性をもつ。この魂の働きを妨げるのが罪である。
⑦カタリ派は身体としての「私」を拒絶し、霊魂のみが私の実体であるとした。近現代の「私」は、脳死判定に端的なように、私とは「私の意志・理性・記憶である」―すなわち「脳こそが私であり、肉体はその乗り物に過ぎない」というギリシャ的観念論に回帰したかに見える。脳が主人となった「私」の中で、心臓は思いを止め、肝臓は怒りと喜びを忘れ、身体は単なる肉体―物質へと化した。こうして「私」は、生命活動の総体であるべき身体性を喪失し、その実感の喪失を通して、魂の力動を感じ取る心身の感覚を失い、死を覆い隠すようにして魂は覆われてしまった。こうして脳において受容し反応できない世界は異界と化し、全被造物を刻々に孕む生の只中に永遠[神]へと連なる道を見失った。
18世紀にカントは嘆いた。「わたしは霊魂ということばの意味がわからない。」(カント『視霊者の夢』)これが私たちの姿ではないのだろうか。
●「祈る」ということ

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johanusuda

Author:johanusuda
臼田夜半
鴨川市在住
著作『病という神秘』(教友社)
  『ネロの木靴』(地湧社)
  『聖ヒルデガルトの病因と治療』(ポット出版)
制作『いのちの大切さ』
(文部科学省学習支援ソフト)

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